【自己紹介】行政書士ジャジーが出来上がるまで。ロングバーション!

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こんにちは。
沖縄県那覇市のJAZZ好きの行政書士ジャジーこと城間恒浩です。

ジャズは好きだけど詳しくないのですが、ニックネームは「JAZZY」(ジャジー)。
そんな僕の少し長めの自己紹介です。

□■□基本情報□■□

名前は、城間 恒浩(しろま つねひろ)。

1971年9月生まれの乙女座、A型。
家族構成は母、薬剤師の妻一人、子供が男の子二人(高2と小3になります)、ブルドッグ1匹(5歳)です。
父は6年程前に亡くなりましたが沖縄県那覇市出身、母は健在、鹿児島県志布志町(現、志布志市)出身です。
私も鹿児島県志布志町(現、志布志市)に生まれ、沖縄県那覇市で18歳まで育ちました。
趣味は、読書、ジャズ。

ジャズは好きなだけで、楽器も出来ませんし、歌も歌えません。
それに、曲が流れてきても、何の曲かなんて良くわかりません(笑)
好きなだけです。
でも、好きが高じて、「JAZZ好きの行政書士」と名乗ってますよ^^
性格は基本的にはまじめであり、論理的に考え、神経質なところがあるかもしれません。
あと、よく細かいといわれますが、これは責任感の強さからきていると自分では分析しています。

誕生日からその人の特性を占う、誕生数秘学によると、僕は生涯にわたって「無邪気な子供」のようですから、もっと子供のように人生を楽しみたいと思います^^

好きな場所は沖縄とニューヨーク。

15年ほど沖縄を離れて暮らしてみて、改めて沖縄の良さがわかりました。
ニューヨークは2010年に初めて訪問して、すっかりはまってしまいました。
その後、2012年にも旅行してますが、飽きないところです。
あのエネルギッシュなところがいいですね。
ニューヨーク・タイムズスクエア。2012年に訪れた際の一枚。

ニューヨーク・タイムズスクエア。2012年に訪れた際の一枚。

□■□小学校時代□■□

那覇市立開南小学校時代は少年野球チーム「松尾カープ」を友達と作って、1番ショートとして、野球に熱中してました。
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小学校で野球をしていたころの写真。1番ショート。

将来はプロ野球選手を目指してましたからね~

最後の大会では、ライバルチームと決勝戦で、戦うところまで強くなることが出来ました^^
強くなった要因は、「楽しんでいたこと」だと思います。
日曜日だけしか練習はしてませんでしたが、楽しくて楽しくて仕方なかった。
週に一度の練習の日が来るのが待ち遠しかったですものね。
その時のメンバーとは今もいい友達です^^
小学校2年生のころに僕にとっては、とても大きな事件が起きます!
体育の時間に、大怪我(頚椎捻挫)をして、半年ほど学校を休むことになります。
小学校のころに頸椎のけがをする。左から母方の祖父、弟と僕。

小学校のころに頸椎のけがをする。左から母方の祖父、弟と僕。

病院のベッドに寝たきりの時間を長く(1ヶ月くらいかな)過ごしたこともありました。
そのときに、沢山のマンガ(釣りキチ三平とか)を読んだのを覚えてます。
ちなみに、今もマンガ好きです。
その時の怪我で、今も後遺症が残ってます。
怪我の影響で、両手に力が入らないのです。
日常生活は、少し不便ではありますが、一人でたいていのことはできます。
でも、この怪我が原因で、プロ野球選手になることは後にあきらめました。
グローブでボールをうまくつかめない、バットを強く握れないのは致命的でしたからね><
まだ、小学生でしたので、自分に起きたことを現実として受け止めていなかったと思います。
ただ、この頃に怪我をしたことが、僕の後の人生に大きな影響を与えているのは間違いありません。
その影響は、いいことでもありましたし、とても嫌な思い出を作るものでもありました。
でも、そのことがあったからこそ、今の幸せな自分がいると考えると、必要なことだったのでしょうね。

□■□中学校時代□■□

自分のなりたかったプロ野球選手にはなれないと、気づいた頃です。
父親からも、「君は身体が弱いのだから、頭を使う仕事をしなさい!」と言われ、那覇市立上山中学校時代は勉強にいそしみました。

このときに言われた父親の言葉は、その後の人生において、いろんな意味で大きな力となりました。
そのとおりだと思うとともに、悔しい思いを抱えながらね。
ということで、中学校時代は、勉強ばかりして、帰宅部でした。

この時期に、将来の仕事として、海外で働く、JICAの青年海外協力隊に参加したい!というようなことを考え始めたのです。

中学3年生のころの写真。 後列右が僕。

中学3年生のころの写真。後列右が僕。

□■□高校時代□■□

高3インターハイ県予選終了後の集合写真。とても強いチームでした。 僕は最前列左から5番目。めがねに帽子かぶってます。真っ黒です。

高3インターハイ県予選終了後の集合写真。とても強いチームでした。
僕は最前列左から5番目。めがねに帽子かぶってます。真っ黒です。

お馬鹿だった僕も、中学時代に人並みに勉強したことで、県立那覇高校に進学することが出来ました。
高校に進学するころは、首の怪我のこともあり、運動系の部活をあきらめかけていました。
でも、高校のグランドで部活をする人たちを見ているとスポーツをしたいと考えるようになったのです。
考えました。
怪我の影響で、球技や手を使うようなスポーツは出来ないと思い、それなら走ろう!と陸上競技部の門をたたくのです。
この選択が、人生を変えることになります^^
陸上競技部の練習はきつかった。
その当時、沖縄の高校生では、間違いなく一番練習をしてたと思います。
でも、その時の同級生はとてもいいメンバーで、先輩や後輩とも仲良くて、練習はきつかったけど、楽しく高校時代を過ごせることができました。
そのときに出会った友人は、かけがえのない親友です。
短距離と走り高飛びをしてましたが、高校最後のインターハイ県予選では、400MRと1600MRで、沖縄県高校記録も作ったんですよ^^
三年間、きつい練習を一生懸命に、頑張った結果が花咲いた瞬間でした。
「努力」すれば、報われる!と実感した瞬間でしたね。
身体の弱い僕が、沖縄県の陸上競技界でトップになれたことは、奇跡的なことでした。
実は父親に「陸上部に入る。」と伝えたところ、こんなことを言われてました。
君は身体が弱いんだから、スポーツでは結果を残せない。勉強したほうがいい。
僕は、現実を知りつつも、「くそ~、見てろよ、クソ親父!」と反対を押し切って陸上部に入るわけです。
もしかしたら、その時の親父の言葉がなければ、沖縄県高校記録を作ることも出来なかったかもしれません。
そんな父親はバレーボールの沖縄チャンピオンで、スポーツでNO.1になる厳しさを良く知っていたので、そんな言葉をなげかけたんだろうと、今では思います。
これも今の自分を創る、なくてはならない出来事だったのだと思います。

□■□大学時代□■□

大学陸上部のチームメートと他校のマネージャーを囲んで。 陸上そっちのけで、女の子のことばっかり考えてました(笑) だから記録も伸びなかった。

大学陸上部のチームメートと他校のマネージャーを囲んで。陸上そっちのけで、女の子のことばっかり考えてました(笑)だから記録も伸びなかった。

陸上競技を現役で続けたかったので、陸上競技ができる環境を探して、受験してました。
でも、スポーツ推薦は、ことごとくダメでした。
個人での目立った記録がなかったのが、よくなかったですね><
最終的には福岡県北九州市の九州国際大学に進学することが出来ました。
本気でオリンピックに出たい!と思って練習にいそしみましたが、大学時代はまったくダメでした。
高校時代の記録に、並ぶのがやっとでしたから。
オリンピックを目指した動機が不純でしたからね。
その当時、女子バレーボールの選手で、斉藤真由美さんという方がいて、その人のことが大好きで、オリンピックに出れば知り合える!と思っていた純粋で、お馬鹿な大学生だったのです(笑)
思えば、学生時代にスポーツに打ち込めた僕は、とても良かったと思ってます。
小学校時代に野球をしたのと高校時代に陸上競技に出会い、大学時代まで、打ち込めたことは僕の人生に大きな影響を与えていると思います。
もちろん、いい影響です(笑)
そして、いよいよ社会に出るための就職活動が始まるのですが、僕は国際協力関係の仕事をする!とその分野に絞ってました。
第一希望は、独立行政法人国際協力機構JICA(当時、国際協力事業団)。
しかし、当時は、バブルははじけ、社会貢献とか、国際協力に関心が高まっている時代でした。
だから、その業界には就職希望者もハンパなく多かったわけです。
その当時、大学の就職課の方に、「JICAで働きたい!」と相談したら、「うちの大学からそんなところにいけるか!」と学生の夢を打ち砕くような言葉をいただきました(笑)
でも、その言葉も僕の力となるわけです。

□■□社会人時代(国際協力に携わる)□■□

海外からの研修員を受け入れる事業に携わる。後列の真ん中が僕。

海外からの研修員を受け入れる事業に携わる。後列の真ん中が僕。

就職活動を、国際協力業界に絞って行ったところ、ラッキーなことにその業界に就職することが出来ました。

やっぱり、僕ってツイテます^^

1994年(平成6年)4月に財団法人日本国際協力センター(JICE)に入団し、国際協力機構(JICA)の受け入れる開発途上国からの研修員が参加する研修の運営業務に10年と9が月携わることとなるのです。
JICEでの勤務は、僕の社会人としての基礎となっています。
先に書いたように、大学の就職課の方に、言われた心無い言葉がここでも力を発揮する源になったのです。
人生に無駄なことって起きないですね。
中学生の頃に、海外で仕事をしたい!青年海外協力隊に参加したい!という夢がありましたが、概ね達成できました。
海外勤務はありませんでしたが、出張で、フィリピン、アルゼンチン、ウルグアイ、ネパールに行くことが出来ました。
青年海外協力隊には参加できませんでしたが、どうしても働いてみたかったJICAにも2年ほど勤務できたのです。
その当時、辞める直前までは、一生、国際協力の仕事をしていこうと考えていたのです・・・
しかし、いろいろ思うところがあり、JICEを退職することに。
やりたいことが見つかったのです。
それが「行政書士」という仕事でした。

□■□行政書士試験の勉強□■□

当時、「カバチタレ」という行政書士が主役となる、マンガやドラマが流行ってまして、行政書士ってかっこいいな~と思ったんです^^
運命の出会いでしたね。
2004年(平成16年)12月にJICEを退職し、その後10か月は行政書士試験受験のために勉強にいそしみました。
行政書士試験には、その年の試験で、3回目の受験で合格しました。
この時の行政書士試験の合格率は2.7%(沖縄県1.4%)と過去に例を見ない低さでした。
この時の試験に合格したことは、とても自信になっております。ちょっとした自慢です。
何事も努力すれば、目標は達成できると改めて思いましたね。

□■□社会保険労務士事務所での勤務□■□

社会保険労務士法人なかでの勤務時代。2段目左端が僕。

社会保険労務士法人なかでの勤務時代。2段目左端が僕。

行政書士の試験結果を待っているときに、目に留まったのが、社会保険労務士事務所の求人。
行政書士に合格したとしても、すぐに開業するのもどうかと不安にも思っていたので、同じ士業の仕事の仕方や経営についても勉強できるかもと応募したところ、これもラッキーなことに採用が決まったのです。
そして、2005年(平成17年)12月に社会保険労務士法人なか(なか事務所)へ就職し、その後10年ほど勤務することになるのですが、そんなに長い時間勤めるとは思っていませんでしたね。
労働保険、社会保険のお手続きや労務相談を受けることで、多くのことを学びました。
生きていく上で、とても役にたつことを学ぶことが出来ました。
また、沖縄の会社の状況や雇用状況、経営者の考え方に触れることが出来たのは、とてもラッキーでした。
なか事務所で働くことも、必然だったんですね。
なか事務所で働いているときに、これまた運命的な出会いをします。
エクスペリエンス・マーケティング(エクスマ)に出会うのです。

□■□エクスマとの出会い□■□

エクスマ67期沖縄塾の集合写真。

エクスマ67期沖縄塾の集合写真。

エクスマとは、藤村正宏先生の提唱する「モノを売るな!体験を売れ!」という考え方をベースとしたマーケティング手法です。
エクスマについては、藤村先生のブログ(ここ)をご覧くださいね^^
エクスマは、マーケティングの手法なんですが、一番惹かれたのは、藤村先生の人柄です。
また、エクスマが実践的で、とても楽しく、面白いということ。

社会保険労務士事務所では、新たなお客様とのお付き合いを求めて、セミナーを開催したり、販促物を作ったりしてたのですが、その手法として取り入れたのが、エクスマだったのです。

エクスマを学んで、はじめたのがブログ。

社会保険労務士時代から、約3年半ほどほぼ毎日ブログを書いてます。
また、藤村先生がおっしゃっているように、ブログやFacebookなどのSNSでの発信が、個人事業主にとっては、自分のことを知ってもらうためにも有効な手段であり、大事なことであると思ってますので、日々実践してます。
何よりも、師匠藤村正宏先生の人柄に惹かれますが、あの笑顔に何度助けられたことか。
2015年は、エクスマ塾に参加し、2016年はエクスマの上級コース(エヴァンジェリスト)で、表現力、伝達力、発信力を高め影響力を強めることも学びました。
大好きな師匠、経験豊富なサポート講師陣や個性的な仲間と学ぶ、とても貴重な時間です。
藤村先生の言葉は、これから自分の人生や仕事をしていく上で、大事な指針となります。
「遊びのような仕事。仕事のような遊び。」
「好きなことを仕事に取り入れよう。」
「迷ったら、どっちが儲かるかではなく、どっちが楽しいかで判断しよう。」
「あなたには、あなたにしかない価値がある。」
「あなたの得意(専門分野)なことで、人を仕合せにしよう!」
などなど珠玉の言葉が並びます。
行政書士は、自分自身が商品だと思ってます。
エクスマを学んで、僕自身の個性、そして価値をしっかり発信していくことが大切だと思って、日々実践してます。
エクスマ・エヴァンジェリスト15期卒業集合写真。

エクスマ・エヴァンジェリスト15期卒業集合写真。

□■□行政書士事務所開業□■□

約10年3ヶ月ほどの社会保険労務士の勤務を経て、2015年(平成27年)10月15日に行政書士の登録をしました。
JAZZ好きの行政書士として、終活・相続・遺言書専門の仕事をしています。
好きなことを仕事に取り入れながら、僕の専門分野で、皆さんのお役に立てたらと思い、日々楽しく活動してます!!
まだまだ、駆け出しの行政書士ですが、あなたの不安、不満、不便を解消できるように、寄り添いながら問題解決に当たりたいと思いますので、よろしくお願いします!
すっかり長くなりました。
最後まで、お読みいただきありがとうございます!
僕の名刺。

僕の名刺。

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最高にカッコいい、至福の時間をご案内します♪
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「Parker's Mood Jazz Club」 那覇市久茂地3-9-11アーバンビル5F

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【ラジオ番組パーソナリティ】

「ジャジーのJAZZタイム×幸せな相続相談」
毎月第1および第3水曜日 21:00から21:50
ご家庭のラジオなら那覇市で聴けます。
スマホのアプリ(ダウンロードはこちら)があれば、日本いや世界中で聴けます。
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大好きなJAZZや遺言・相続のことを中心におしゃべりしてます^^
聴きたいJAZZがあったらリクエストください!
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城間 恒浩

代表者行政書士ジャジー総合法務事務所
沖縄県那覇市松尾の遺言・相続関係専門のJAZZ好きの行政書士。 2010年に父親と祖母を同じ年に亡くし2度の相続を経験。 その時に感じたのが「気軽に相続や遺言に関する相談先があったらいいのになぁ」ということ。 そんなことから、身近な街の法律家、遺言・相続専門の行政書士として、自分の経験や学んだ知識で相続でお困りの方のご相談にのっています。 行政書士は遺産分割協議書や遺言書作成などの相続関係のお手伝いもできるのです。 1971年9月生。国際協力関係の仕事に約11年間、社会保険労務士の事務所で約10年勤務後、2015年10月より現職。 エクスマ塾67期。エクスマ・エヴァンジェリスト15期。エクスマ学院1期。 JAZZが大好き。好きな場所は、沖縄とニューヨーク。 2016年9月よりラジオ番組パーソナリティーとしても活躍中。お気軽に「ジャジー」と声をかけてください!

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